Q: 死後に研究が評価されるケースは、その人の人生の有益さにつながらないので正しくないのか?
Q: 死後に研究が評価されるケースは、その人の人生の有益さにつながらないので正しくないのか?
もし彼が「自分の研究が世界に評価されて『すごいですね』と言ってもらいたい」場合、彼が死ぬ時点では彼の選択は正しくなかったことになります。もっとわかりやすいテーマを選択すべきだったかもしれません。研究に割く時間を少し減らして、対外露出に時間を割くべきだったかもしれません。「世界一受けたい授業」みたいな番組への出演を目指してテレビ局に営業をかけるべきだったかもしれません。
もし彼が「なぜ何々が起こるのか知りたい」場合、研究を世界が評価するかどうかはどうでもいいことです。知ることができたら満足して死ぬことができます。知ることができなかったら、彼の選択は正しくなかったことになります。借金をしてでももっと良い実験器具を買うべきだったかもしれません。視野を広げるために別の分野を学ぶべきだったかもしれません。研究途中の情報をもっとオープンにして、他人からのフィードバックを求めるべきだったかもしれません。
もし彼が「何々の問題を解決して周りの人を幸せにしたい」場合、問題の解決に成功すれば問題を抱えていた人たちはあなたの研究を評価するはずです。世界のその他大部分の人が彼の研究を評価しなかったとしても、それは彼にとってはどうでもいいことです。彼の関心事は、評価ではなく、周りの人が幸せになったかどうかなのです。うまく行かなかったのなら、もっと周りの人の話を聞くべきだったかもしれません。
もし彼が「面倒なことにわずらわされず、研究に没頭して生活したい」場合、評価されるかどうかはどうでもよいことです。むしろ評価されて取材依頼が来たりするとわずらわしいです。こういう人は目立ちにくいのでどれくらいの人数がいるのかよくわかりませんが、ヘンリー・キャヴェンディッシュやグリゴリー・ペレルマンなどが典型例なのかなと思います。ペレルマンの事例なら、世界は彼を評価しましたが、彼はそれを「失敗」と捉えているかもしれませんね。 このように、彼がどういう欲求を持っていて、人生で何を目的としているかによって、彼の行った選択の正しさは変わります。